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​本殿

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崇峻天皇と皇后・皇子の物語

崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。587年、その英明さを以って、皇族はじめ朝廷の群臣に推されて即位。当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。折しも蘇我氏の全盛時代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こうとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷よりも、当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わんとされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。すなわち今日、日本三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。皇子は文字通り出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となられた。蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれている。
小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指され、そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

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